真の日本史 (2) (続)
2026年 02月 24日
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ここで、古事記での表記を追ってみます、、序文では元明天皇 和銅5年(712年)に太安万侶が書き上げたとなっています、、しかし序文は後々付け加えられた偽書、という見方が正しいでしょうから、古事記はもっと時代は古く遡って書かれたものという前提に立ちます。(三浦佑之「古事記の神々」令和8年 角川ソフィア文庫)
古事記上巻 伊邪那岐命と伊邪那美命 二 二神の国生み
『次に大倭豊秋津島を生みき。亦の名は天御虚空豊秋津根別と謂う。」
、、、淡路島・四国・隠岐島・九州・壱岐島・対馬・佐渡島、の後の最後にこの『おほやまととよあきづしま』(またの名は『あまつみそらとよあきづねわけ』)を生み、この八島を先に生んだので『大八島国』という、、、とあります。
つまり、最後の島は本州と取れますが、『倭(ヤマト)』に『大』をつけています。
『おほ』は出雲の王を指す言葉で、クナト王がこもる山が『大山』であり『おう川』などの地名に残り、太安万侶の『太』もこれから来ているのでしょう、、出雲王家の家臣、そしてヤマトに移ってきたのです。
八は出雲の聖なる数であり、八重垣その他に残ります、、八重山という地名も出雲あるいは南まわりでインドから渡来したドラヴィダ族がつけた名でしょう。
出雲は北回りでインドから渡来したクナト王に従う人々が住み着いたところですが、九州と越国には別のドラヴィダ族の集団が渡来して住み着いたのでしょう。
ドラヴィダ族はアーリア人の侵攻から逃れて渡来してきましたが、平和的な人々で縄文人と戦うことなく、定住して行きました。
ともあれ、ヤマトに『倭』の字を当てたのは、支那が使う呼称を知っていて、使ったのでしょう、、『大』は蔑称を覆す意味でつけたわけではないでしょう。
ヤマトはすでに別格の豊かさを持ち始め、王家も広く支配するようになっていたので国を意識して使ったのです。
聖なる八で国生みの主たるところをまとめ、『大八島』と称しました、、こちらに『倭』を用いなかったのです。
(続く)
by ymmatheb
| 2026-02-24 17:17
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