真の日本史 (2)
2026年 02月 15日
十七箇條憲法 聖徳太子
十七条憲法の第一条は
「一曰。以和爲貴。」
で始まりますが、、この『和』は『ヤマト』である、、ということを以下で説明します。
最初に、
に述べたように、支那が蔑称として用いていた『倭』を、『ヤマト』にあてて用いていたことがあります。
地名として、本来の『ヤマト』『ヤマシロ』には、『山表』『山背』と漢字をあてればよかったのですが、『倭』を『ヤマト』にあて、多分蔑称を躱す意味で『ヤマト』(国、朝廷)に『和』の漢字をあてました、、そして最終的に地名の方のヤマトは『大和』、ヤマシロは『山城』をあてることになりました。
そこで、第一条は
「一に曰く。ヤマトを以って貴しと為す。』
と読まなければなりません。
第一条全ては次の通りです。
「一曰。以和爲貴。无忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。
然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。」
「一に曰く。和(ヤマト)を以って貴しと為し。忤(さか)らい無きを宗と為せ。
人皆党あり。また達者少なし。これを以って或いは君父にしたがわず。
たちまち隣里と違(たが)える。
然して上和(やわ)らぎ下睦み。事を論(あげつら)い諧(ととの)え。
則ち事理自ら通じ。何事か成らざらぬ。」
最初の『和』を『わ』と読んでしまうと、『忤らう』の言葉が少し変になります、、つまり、ヤマト(国、朝廷)に逆らうな、だとしっくり収まります。『和(わ)に逆らう』という言葉使いは当時は多分なかったでしょう。
国あるいは王朝に対して逆らう、、国には徒党を組む者が現れ、乱れること常です、、国・朝廷に第一に従え、、と言っているのです。
そして、上和らぎ下睦み、、で『和』が和(やわ)らぎという言葉として使われます、、これが当時この漢字を解釈しての用法だったのでしょう。
初めの『和』は固有名詞にあてたもので、後の『和』は漢字の意味に従って使っているものになります。
初めのをヤマトと読むことで、第一条全体に重複したいいまわしもなくなり、すっきりと理解できることを味わって欲しいものです。
第一条で、、豪族・領主はヤマト王国に従い、互いに争っては成らない、、ヤマト朝廷は必ず争いを収める、、豪族・領主が平和に・民が仲良く、すれば万事うまく行く、、と謳いあげた後の第二条以下を見てみましょう。冒頭だけ挙げて行きます。
「二曰。篤敬三寶。三寶者佛法僧也。(以下略)」
「二に曰く。篤く三寶を敬え。三寶は佛・法・僧なり。」
ヤマト王国は仏法僧を敬う国と宣言します。
「三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。(以下略)」
「三に曰く。詔(みことのり)を承ければ必ず謹め。君は即ち之(これ)天。臣は即ち之(これ)地。」
「四曰。群卿百僚。以禮爲本。要在于禮。(以下略)」
「四に曰く。群卿百僚は。礼を以って本とせよ。要(かなめ)は礼にあり。」
「五曰。絶饗棄欲。明辨訴訟。(以下略)」
「五に曰く。饗を絶ち欲を棄て。明らかに訴訟をわきまえよ。」
政治の形が宣言されます。さらに官の体制と官僚・役人の心得も示します。
「六曰。懲惡勧善。(以下略)」
「六に曰く。悪を懲らしめ善を勧めよ。」
「七曰。人各有任掌。宣不濫。(以下略)」
「七に曰く。人おのおの任掌ありて。宜く濫れず。」
「八曰。群卿百僚。早朝晏退。(以下略)」
「八に曰く。群卿百僚は。早い朝出おそい退出。」
「九曰。信是義本。毎事有信。(以下略)」
「九に曰く。信はこれ義の本ぞ。事ごとに信あれ。」
「十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。(以下略)」
「十に曰く。忿(いか)りの心を絶ち顔に怒りを表さず、違える人に怒らず。」
「十一曰。明察功過。賞罰必當。(以下略)」
「十一に曰く。功過を明らかに察し。賞罰を必ず当てよ。」
「十二曰。國司國造。勿斂百姓。國靡二君。民无兩主。(以下略)」
「十二に曰く。国司国造は。百姓をおさめるなかれ。国は二君なし。民は両主なし。」
「十三曰。諸任官者。同知職掌。(以下略)」
「十三に曰く。諸々の任官者は。等しく職掌を知れ。」
「十四曰。群卿百僚。无有嫉妬。(以下略)」
「十四に曰く。群卿百僚に。嫉妬あるは無し。」
現代にも立派に通用する条文が続きましたが、次の第十五条に極めて注目すべき項が出現します。
「十五曰。背私向公。是臣之道矣。凡人有私必有恨。有恨必非固。非固則以私妨公。恨起則違制害法。故初章云。上和下睦。其亦是情歟。」
「十五に曰く。私に背いて公に向かえ。これ臣の道かな。およそ人に私あれば必ず恨みあり。恨みあれば必ず安定しない。安定なければ即ち私を以って公を妨げる。恨み起きれば即ち制を違え法を損なう。第一条にある通り。上和らぎ下睦め。それもまたこの情(こころ)かな。」
まさに第一条の『上和下睦』を引用しているのです、、第一条先頭の『和』を引用しているのではない、、『和らぎ睦み』という恨みのない安定した状態を指しているのです。
第一条の最初の『和』(ヤマト)を指しているのではないことは明らかで、ここまで読むともはや何の説明も解釈も不要でしょう。
これで分かるのは、同じ内容を述べた時、繰り返される文言がどこにあるかをきちんと指示していることです。
憲法ですから、使われる文言は一つの意味で、曖昧さなく組み上げられたのでしょう。
そこで第一条を思い出してみると、『和』が二カ所に書かれています、、これが同じ内容を述べているならば、第十五条での態度から言って、書き方が変わってくるはずです。
この第一条の書き方からして、二カ所の『和』は違う内容を表す文言だ、ということになります、、最初は『和(ヤマト)』を表し、二貫目は『和(わ、やわ-らぎ)』を表している、と。
あと二ヶ条あります。
「十六曰。使民以時。古之良典。(以下略)」
「十六に曰く。時を以って民を使うは。古(いにしえ)の良き教え。」
「十七曰。大事不可獨断。(以下略)」
「十七に曰く。大事は独断するべからず。」
年表で聖徳太子関係の事蹟を追っておきます。
敏達天皇3年(574年)現在の明日香村に生まれる。
推古天皇元年(593年)推古天皇即位。聖徳太子は皇太子となり、摂政に任命される。
推古天皇11年(603年)冠位十二階を制定、才能により人材を国政に。
推古天皇12年(604年)憲法十七条を制定。
つまり国家の官位・所掌を冠位十二階で整え、憲法であるべき姿を示したのでしょう。
ヤマト国を『倭』国とは、もはや書かなかったはずです。
推古天皇15年(607年)聖徳太子は小野妹子を使節として遣隋使を派遣。
携えた国書には『日出處天子致書日没處天子無恙云云』(「隋書」)との文言。
推古天皇30年(622年)聖徳太子 死去。
文武天皇 大宝2年(702年)遣唐使(粟田真人)『倭』国から『日本』国への変更。『武后倭国を改め日本国と為す』(唐「史記正義」)。
(続く)
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関連:
<祇園祭の京都へ>
<奥州への旅>
by ymmatheb
| 2026-02-15 19:02
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