成吉思汗は義経だった
2023年 10月 21日
(日本・大日本・ニホン 21)

(台北・故宮博物館蔵。チンギス ハーン(60代)の肖像画)
目や口、口髭のそっくりなことは驚くべきです。 表情が醸し出す情感・雰囲気もまったく同じです。 時代と国を超えて、同一人物であることは疑いの余地なく、類似しています。
(2)「成吉思汗」という名の意味
雪の吉野山を前にして逃避行を共にしてきた義経と別れ、その後鎌倉に捕らえられた静御前は二首の和歌を詠みます、、 「吉野山峰の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき」、そして 「しづやしづしづのおだまきくりかえし昔を今になすよしもがな」 を、義経は平泉から東北・北海道へと逃避する道中でおそらく知ったのでしょう。
源義経(ゲンギケイ)のモンゴル音「チンギス」に充てた漢字「成吉思」は、最愛の静御前を思い「なすよしもがな」と万葉仮名式に読めることから取られました。 また「吉野に成りて水干(汗)を思う」(ここで汗をさんずい(水)と干に分けている;水干は白拍子(静)のこと)を漢文式に書き下すと「成吉思汗」になります、、、吉野山になって静を見守り思いたい、と。
(ハーン、ハン、カーン、カン、Khan、汗はモンゴル語の王;カガン、khagan、可汗もコーカサスあたりの王国で使われますが、同じ意味です)
モンゴルの人々は、突如出現した大帝国の皇帝が日本人とは思わなかったでしょう(悟られないようにしていた)。 まして、鞍馬山で修行した義経のように漢字を使いこなしてはいない(文字はなかった)のです。 チンギスという音のモンゴルの言葉がなかったように、そして(漢字を使う人々にも)この文字の連なりの意味は理解されなかったし、想像すらできなかったはずです。 このような名を作れる人物は、古今東西において唯一人しかいません。
唯一、源義経がチンギスであるという事実を認めることしかありません。
(3)「テムジン」は「天神」
モンゴル語に「テムジン」という音の言葉はなかったから、「天神=テンジン」から発したと考えるほかありません。 大陸に渡った義経は大陸の人々には「天神」と名乗ったのでしょう。 武士・従者たちは、「九郎」殿とか「判官」様と呼んでいたのでしょうが、、菅原道真が受けた国家からの扱いに、自分の受けた扱いを重ね、、さらに、「天皇」の上なる「天神」を用いたのでしょう、、見返してやる、との思いもあったでしょう。 日本から義経に従って来た武士・従者たちは、義経が征服した土地の支配者となってゆきますが、各地に残る「クロー」・「ホーガン」等から取られたと思われる名前は、彼らの義経を呼ぶ呼び方が残ったものでしょう。
*******
田中英道先生が、証拠として挙げるのは上の三点です。 これに対して、例えば

(源氏の定紋 笹竜胆) (チンギス ハーンが用いた紋章)
のように、紋章が似ているのは状況証拠とします。 年齢が同じとみられること・共に巻き狩りを好んだこと・モンゴルでの戦い方が平氏との戦いでの義経の戦い方と類似すること・日本の統治制度に似た制度をとったこと・共に背が低く酒を飲まないこと、等々がやはり状況証拠となります。
********
ところで、講演会の受付で
田中良一著「義経は成吉思汗に! 同一人物説のロマンと真相を追って」(鹿児島学術文化出版 令和3年)
<奥州への旅>
田中英道著「やはり義経はチンギス・ハーンだった-----フォルモロジーからの再検証------」(文芸社 令和5年)
の出版記念・講演会が令和5年10月7日(土)に開かれました。
田中先生の講演の後、田中先生と義経研究家のお二人の方によるシンポジウムを行われました。
講演は、証拠と状況証拠を分けることの重要性を説くことから始まりました。
状況証拠はいくつあっても、証拠ではない、、今、確実な証拠が3個ある、、と。
(1)肖像画の類似


という本が売られており、早速購入しました。
著者の田中良一先生はパネリストのお一人でした。
大変面白くすぐに読んでしまいましたが、特に興味深かったのは次の点です。
(1)平泉から大陸に渡るまでの逃避行にあたる東北・北海道の各地に義経の跡が残っていて、それを繋ぐと、大陸に向かってまぎれなく進んでゆく、とのことです。
神社や建物、地名、等の形でたくさんの跡が残されており、一つひとつは状況証拠になるとしても、同一人物に関してこれだけ残っていれば、ほとんど証拠と言ってもおかしくない、と思えます。
言い伝えや地名などは、事実の強い印象がなければ生まれず、今に残っているということは、作り話でないことは明らかでしょう。
田中良一先生は、自らの足で跡を追って調べられたそうです。
(2)チンギス ハーンは晩年に、支那(山東省)から道教の権威・長春真人(チョウシュン シンジン)を招き、「元朝秘史」(原題「モンゴルの秘密の綴り」)を漢字で書かせました。
チンギス(義経)は、朝敵として日本を追われた不名誉を隠し、モンゴル人として生まれ活躍したという一代記を後世に残したかったのではないでしょうか。
祖を「蒼き狼」とする空想的な物語を作り、日本から逃避せざるを得なかった過去を秘したのでしょう。
長春真人と二人きりで厳重に警護された密室で、チンギス(義経)は義家の漢字を書いて見せたりしたのでしょうか、、長春真人はそれを漢文読みしてイエスゲイと音を充てたのでしょうか。
後に『秘』史と呼ばれるようになるのは自然なことだったのです。
そして、『我天命によりここに死す。今は恨みなし。ただ故山に帰りたし』との言葉を残して『成吉思汗』は68歳で亡くなりました。
朝敵として自分を追討した頼朝への恨みも、大陸での後半生が少しは薄めてくれたのでしょう。
ただ、幼い頃飛び歩いた急峻な鞍馬山の記憶が蘇ります。
「世界史」を創始したチンギス ハーン・源義経、、、、豊かな自然の中で平和で満ち足りた生活を一万年も続けてきた縄文人・縄文出雲人の中へ、馬と剣・武具を携えて渡来した秦氏らユダの人々は、鎌倉時代に至ってついに武家集団として日本の国を支配する実力と文武両道での教養・力量を持つに至りました、、ただその感性は縄文人の穏やかで争わない性格を引き継ぎ、農民は敵でも味方でも大事にしました、、、、その武家のひとりとして、大陸でも日本で身に付けた力を存分に発揮したのです。
【12月19日 追記】
兵法研究会の講座で11月、12月と2回にわたって家村先生の講義を受講しました。
藤原秀衡が義経に、、大陸の金を討って、交易の邪魔を取り除きたい、、と大陸進攻計画を明かしていたことを知りました。
義経は大陸渡航後、金を討ち全てではありませんが、手に入れます。
しかし、その後も征服欲は衰えず、ユーラシア大陸を西に進攻してゆきます。
そこで、これは義経の日本(頼朝)に対するルサンチマンが掻き立てたことではないか、、義経は日本以外の世界を支配下に置き、最後には頼朝を平伏させたい、と思っていたのではないか、、と質問しました。
先生は、それよりも、周辺諸国の動きや軍事的な面から広がっていった、、と考えられているとのことでした。
私は、やはりルサンチマンが心の底にあったからのことと思います、、モンゴルの地、モンゴルの人々に動機を求めるのは無理ではないかと思えるのです。
義経チンギスが死を前にして遺した言葉に、
「今は恨みなし、ただ故山に帰りたし」
があるそうです。
モンゴル人だったら、あるいはユーラシア遊牧民だったとしたら、このような言葉を発するでしょうか。
頼朝・上皇の日本、、その日本以外の国・世界を支配し、日本を自ずと平伏させる、、この「恨み」が世界を征服して行った動機だったのでしょう。
そして、義経チンギスの子・孫は、秘密にされていた日本との関係を、知っていたのではないでしょうか。
それが、やがて元寇という日本遠征の隠れた動機になったのではないでしょうか、、子や孫が表面的には見せなかった、義経チンギスから受け継いだ日本への意識があったのではないでしょうか。
縄文にやってきたドラヴィダ(タミール)人は、平和的に溶け込み皇室につながる支配の元を形成します。
弥生にやってきた徐福たち(古代ユダ人の血をひく)は武力を持って皇室武家支配を形成しました。
(武家は義経を追い払いました。)
武家は、元寇を敗走させました。
大東亜戦争後、米軍はニホンを支配しました。
***** *****
【令和6年3月7日 追記】
で、全体の日程が終わった後、平泉・一関を歩いてみました。
浄土・平泉を守るために金の鶏が埋められたとされる金鶏山(きんけいさん)に登ってみます。
発掘調査によれば、金の鶏は出なかったけれど、藤原氏の経塚だった痕跡が出たと言います。
東に北上川、北に衣川(東に流れて北上川に合流)という地にあって毛越寺・無量光院跡・中尊寺の真ん中あたりに位置する高さ90mほどの山です。
駅から毛越寺への道を歩き、毛越寺手前を右に曲がって行くと、麓の登山口
に着き、急な坂道を上り詰めると山頂に出ます。
登山口の横には
がありました、、墓石は鎌倉時代風です。
「吾妻鏡」によれば、藤原泰衡は衣川の館を襲い、合戦に敗れた義経(31歳)は持仏堂に入って妻(22歳)と娘(4歳)を殺してから自害しました。
衣川の館は中尊寺から見て衣川の対岸にあります。
一方、後に伊達藩主が建立した高館(たかだち)義経堂(ぎけいどう)は金鶏山・無量光院跡に近い北上川を見下ろす高台の上にあります。
義経堂は義経が最後を迎えたところとされていますが、、この二つは離れており、衣川から高館まで落ちのびて自害したというのは、無理があるようです。
しかし、最初から高館にいて襲撃された、、というのも無理があるように感じます。
また、墓はこの場所に移されたと言います、、最もらしい体裁を整えるためなのか隣には
が置かれています、、最初の場所も遺骸・遺品等とは関係なかったのでしょう、、何かとってつけた感がどうしようもなく湧いてきます。
* * *
義経に関しては、頼朝の奥州攻めの後も色々な噂が飛び交っていたであろうと想像されます。
執権・北條氏は噂を断って歴史を定めるために「吾妻鏡」を作ります。
そして、記紀でお馴染みの「歴史浸透」が図られます、、これが「墓」や「故地」を生み出して行きます。
王は多数の妻に子を沢山産ませるのが自明の役目としても、改めて吉野で別れた静御前は特別な存在だったのでしょう、、この妻と娘への思いを偲ばせるものは残っていないようです。
江戸時代に伊達藩主が義経堂を建立する頃には、「吾妻鏡」史観が世を塗り潰していたのでしょう、、義経一行が大陸へ逃避する途中で立ち寄ったところに、言い伝えや足跡が微かに残されているとしても。
*********************
【令和6年11月14日 追記】
新宿から小田急線に乗って南下すると、多摩川を渡って川崎市多摩区に入ります。
ここで、多摩丘陵の高みが多摩川に沿って広がっています。
鎌倉街道と呼ばれる道は、下野国などから関東平野を縦断して多摩川に達し、多摩川を渡ったらまっすぐ鎌倉に上って行きます。
奥州から鎌倉に上るのも、もちろんこの道が使われたのでしょう。
この丘陵には関東平野の彼方から敵が攻めてくるのを監視するための砦があり、稲毛氏などが砦を構えていた要衝でした。
後で触れる丘の上のお寺からは、筑波山が見え、逆方向は横須賀まで見えるそうです。
そして、義経が頼朝のもとに馳せ参じた時も、この道を通ったのでしょう。
多摩川の南岸の多摩丘陵で、鎌倉街道中道で多摩川を渡って西に行ったところ、読売ランドの駅近くに「二枚橋」と言う橋があります。
川幅は20メートルもないくらいですが、切り立った崖下を水が流れています、、義経が鎌倉に向かう途中でここに差し掛かり、橋をかけたとのことです。
木を並べ、布団のように何かをかけて渡したので、二枚に見え、「二枚橋」と名付けられたそうです。
そして、義経が吉野から奥州へと逃れてゆくとき、立ち寄ったという仙石山寿福寺がほど近い高台にあります。
最初は推古天皇の頃に建てられたと言い、義経は逃避行の途中で立ち寄り、本堂裏手の洞窟で写経したと言います、、その写経は昔は公開されていたそうです。
境内からはスカイツリーが見え、鐘楼に上ると横須賀まで見えたと言います。
さて、鎌倉に向かう時には「二枚橋」の名を残すような事実が実際にあったのかもしれない、と思えるのですが、、逃避行の際に寺に立ち寄ったと言うのは、逃避行の道筋から考えにくいようです。
奥州から蝦夷・樺太を経てアムール川に逃れる義経の道筋に沿って、多くの伝承や遺跡が残されていますが、寿福寺の伝承は「ご当地モノ」の一つではないでしょうか。
二枚橋は、内容が具体的であることや、奥州から鎌倉へ向かう道筋としても無理がないことから、真実でしょう。
そして、この伝承からいつか生まれてきたのが寿福寺の伝承ではないでしょうか。
【備考】以上のことは、多摩区観光協会のツアーに参加して、知ることができたことです。
by ymmatheb
| 2023-10-21 15:09
| 歴史
|
Trackback
|
Comments(0)











